ALFIE【閉店】
Adress | 自由が丘駅前の50メートル四方程度の狭い”カオス”エリア |
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Nearest station | 自由が丘駅 |
Record or CD | レコードのみ |
Request note | |
Memo | 閉店 |
組合員からのコメント
2025.1.9 jazzcafeDD様 自由が丘 ALFIEについて
1980年ごろ自由が丘に住んでましたので、ALFIEにはよく行きました。
自由が丘の街がどんどんお洒落に変貌してゆく過渡期でしたが、店のあった一帯にはまだ猥雑な雰囲気が残っていた頃でした。
照明は暗く会話も基本的に禁止というまさに(当時の)正統派のジャズ喫茶で、選盤も硬派。George Adamsを知ったのもこの店でした。
場所柄、酔客が紛れ込むことがありましたが、マスターが華麗に追い出したり。
このマスターはややクセのある方でしたが、実際に話してみるととても親切で気持ちのいい方で、いろんなミュージシャンを教えてもらいました。
1982.9/26 閉店。「学習塾の講師をする」とのことでした。
組合長:マスターはインテリな方だったのですかね。40年以上前の貴重なお話、ありがとうございました。
2025.1.5 nyama様 アルフィーの思い出
1981年頃、自由が丘のアルフィーと言う店に行きました。
山口県から上京し就職した始めの頃で、東京での初めてのJazz喫茶でした。
Coltraneをリクエストした時、声が大きかったせいか、マスタ-が指を1本唇の前に立て「シッ」と言いました。
東京のJazz喫茶にはそう言う所が有るとの噂は聞いていましたので、ムットしましたが何も言いませんでした。その時にかかっていたのはLive In Antive/Hannibalでした。
当時、Coltrane後期, Cecil Taylor,山下洋輔等を時々聞くが本当は新主流派とECMが好きくらいのJazz Funでしたので,アルフィーの選曲は比較的心地よかったです。
緑ヶ丘在住であったため、何回かAlfieに行きました。
また、近くに牛丼吉野家があり、そこに行く途中でマスターに出会いました。マスターの方から会釈頂き、こちらも会釈を返しました。
後日、Alfieで何かのRequestを小さい声でしましたが、無視され「こちらもいいですよ」とOliver Lakeを無理やり聞かされました。
私は、そう言うAlfieが大好きでした。
東京を離れ、広島・山口に帰り、30年ぶりにAlfieを探しに自由が丘にゆきましたが、Alfieはもうありませんでした。
組合長:正月明けに、いい思い出話を頂きました。この年代の投稿もだんだん減ってきましたね。とても貴重です。
JAZZ協同組合も発足してから早28年。
続けてきて良かったと思える投稿をありがとうございました。
2024.1.22 ジャイロ様 正に正統派ジャズ喫茶
昔高校生の時(半世紀前)によく自由が丘のアルフィーに通いました。
無口でロン毛のマスターと黒いワンピースの大人感が強い女性のアルバイターと。どうにもその女性に惹かれて行ってたのも半分あります。
あの頃はセシル・テーラーとかオーネット・コールマンなど前衛っぽいのもよくかかっていました。気に入った盤があるとマスターにメモさせてもらい自由が丘西口の東光堂ソハラというレコード屋に発注して外国盤取り寄せてもらいました。アルバイト代などすぐになくなりました。
アルフィーはウナギの寝所のように縦長で、長編方向の天井に近い壁にJBLのL100センチュリーというスピーカーとサンスイAU9500というアンプで大音量が楽しめました。
みんな難しい顔して瞑想気味に聞いていました。あの頃が懐かしい!
2009.10.29 Shoot Arrow様
自由が丘という街のイメージを一般の人々に聞くと恐らく、「ファッショナブル」、「スイーツが有名」、「かわいい子供用品のお店がたくさんある」、「高級住宅街」、「OLが住みたい街ナンバー1」などなど、偏見覚悟で言えば「女・子供向けのシャラクセー街で大のおとながいけるか!」といったところであろう。
しかし自分にとって自由が丘のイメージは、”いかがわしい街”である。
ただし、1970年代後半までの話であるが。。。
1970年代後半も自由が丘駅前の女神像が鎮座しているロータリー側は現在ほどではないにせよ、洗練されたブティック、喫茶店、レストランが数多く立ちならんでいた。
しかし女神像と東横線の線路を挟んで反対側に行くと、恐らく50メートル四方程度の狭い”カオス”エリアが存在していた。
そのエリアはミニ歌舞伎町とまではいかないまでも、ドロドロとした男の欲望を感じさせる魅力的なエリアで、ポルノ映画館、パチンコ屋、一杯飲み屋、数多くのスナック、安い中華食堂、マージャン屋(通っていた高校の放課後の溜まり場「マージャン静」もあった)などが密集していた。
また、駅のホームから線路沿いに見える紫色の怪しい看板「サロン踊り子」(この店は奇跡的に長いこと生き抜いていた)が気になった通勤・通学者も多いはず。
当時の自由が丘はまさに、”ファッショナブルなハイセンスタウン”とその対極である”おやじ天国”が共存していた実に稀有な街であったが、1980年頃から”カオス”は女神像サイドの侵攻に次々と屈してこぎれいなつまらないエリアと化してしまった。
まったくもって責任者出て来い!である。
前置きが長くなったが、ジャズ喫茶”Alfie”は駅から”カオス”側に向かい、線路沿いに渋谷方面へ歩いて1、2分ほどの雑居ビルの2階に位置していた。
この店は自分的にはいわゆる正当派ジャズ喫茶の権化であり、ジャズ喫茶に必要とされる全ての要件を兼ね備えていた。
大音量、談話禁止、古い雑居ビルの地下または2階、狭い黒を基調とした薄暗い店内、無口なマスター、あまりおいしくないコーヒー、そのくせ少し高めの値段(確か500円であったと記憶している)。
なおCDは当時まだ普及していなかったのでレコードをかけるというのはあまりに当然のことである。
あと忘れてはならないのが、店のマッチが”スイング”していること。
(最近ジャズ喫茶はマッチの無い店、切らしている店も多くこれは非常によろしくない。)
実は女神像側エリアも嫌いではない自分だが、何ヶ月かに一度ふと立ち寄りたくなる店であった。
映画「時計じかけのオレンジ」のラストを彷彿させるような魅力的な街であった自由が丘だが時は流れ、街は変わり、ある日ふらりと出向くと”Alfie”は息絶えていたのである。
組合長:自由が丘ですか。今ではホント女性の街というイメージですが、なんだか中央線沿線のような時代もあったんですね。復活求む!
皆様の投稿お待ちしております